人災絶頂期

絶対三日坊主宣言

マスタード

更新しない事については、触れない事にした。

マスタードが好きだ。マスタードソースが好きだ。粒が入った奴が特に好きだ。ウィンナーに付けるのが好きだ。

諸君。私はマスタードソースが大好きだ。

何でだろう。

バーベキューソースよりかはマスタードソースが好きだ。そもそもバーベキューとは行為であって味を示すものではなく、製品によってもその定義は様々で、バーベキューソースとは何ぞや、という疑問に陥ることが多々あるがまぁそれは良い。

マスタードソース自体もなかなかに謎が深い。バーベキューはまだ辛うじて分かる、今は外で肉を焼く行為の通称だが、昔は肉を持つ動物を丸ごと一匹燻すか焼くかして、それを庭で振る舞ったことから名付けられたとか何とか言う、いわば、私の様なものは人生において然程多くは経験しない物事の一種だ。それは分かる。

マスタード。Masterd?違う、Mustard。語源から全くわからない。謎の黄色。謎の粒(なんとなくピリッとするのは分かる。それが好き)、謎の香り。

マスタードって何で出来てるんだ?

調べた。

なるほど分からん。
簡単に言えば、カラシナやシロガラシと言われる辛子の元となる種子を粉末にして、水やお酢などを加えて練り上げた調味料。らしい。

辛子かぁ。言われるまで分からなかった。
味覚音痴なのかもしれない。

つまりあのツンとした痛さの部分というか、からし特有の尖った部分をお酢がマイルドにし、お酢自体の酸っぱさは辛子の強い味で隠している、という訳か。よく考えられている組み合わせである。どうりで美味しい、よく考えられたものは美味しいのだ。

そして、謎の黄色の正体は主にターメリックであると判明、なるほど。ターメリックでしたか。スパイスの一種でカレーにも使われていることは分かる。あとは分からんが、まぁ色の原因は分かった。事にしよう。

私が好きだと言った粒の入ったものは、普通に粒マスタードと呼ぶそうな。粒は良い。ウィンナーに表情を与える。歯に挟まるけど。

なんとなくマスタードの事を知った気になったが、肉にあう辛子とお酢の存在は意外だった。普段からあまり辛子を使わないのに、マスタードは想像以上に身近にあったものだから、距離感が狂う。そんな所にいたのか、辛子よ。これからもマスタードにはお世話になるだろうが、コンビニのサンドウィッチに塗りたくられた辛子強めのマスタード、これだけは良くない。お酢の存在意義を思い出せ、コンビニのサンドウィッチに塗りたくられた辛子強めのマスタードよ。マスタードの話でした。

赤い靴

赤い靴のお話含め、そもそも赤い靴自体が好き、ということもある。昔読んだ絵本は原作に忠実だったが、歌を聴くとまた違う話にもなったり、横浜に行けばグッズがあったりと、なかなか皮肉じみた部分も含めて、好きだ。

つるりとして光沢がある、赤い靴。あの可愛らしさは他のどの色でも表現できないし、赤い靴が好きだという少女のセンスは素晴らしい。フォルムの可愛い靴を履いているとテンションが上がるが、その感覚も、少女は自覚すらない幼い時から持ち得たものということが凄い。

指にはめて歩かせるタイプの靴があるが、あの造形がリアルであればあるほど興奮した。昔に読んだ本の中に、ちょうどその大きさほどの靴のような花をつける植物が出てきた。挿絵もあったが、うっとりするほど美しかった。小さな靴を見ると、今でも指を入れて遊びたくなる。

赤い靴について、丸みを帯びたイメージが強いため、赤いヒールでは話が違う。あくまでも靴底は低いものだ。きっと歩くと軽快な音楽が生まれるもの。ヒールのように、刺すような音が響いてしまってはいけないだろう。

歌がある。赤い靴履いてた女の子、から繋がる、少し悲しげな音と言葉で紡がれた童謡だ。合唱団でも歌いはしたが、それには背景の物語があるそうで、それは今更になって知った。「きみ」ちゃんと言う子の話だそうだが、赤い靴を好んで履いていたかは分からない。9歳に結核で亡くなるまでは、泣く泣く宣教師に預けられたり、宣教師から孤児院に預けられたりしたらしい。本人のエピソードに比べて、歌への脚色はかなりの物だ。伝記や童謡なんて、きっとそんなものなのだろうし、だからこそ夢がある。不謹慎かもしれないが、その曲から見えてくる決して「きみ」ちゃんではない他の誰かに空想のヒントを得ることは、決して悪いことでは無いはずだ。

赤い靴をタンタカタンと鳴らして走る女の子。明るい昼の港町も、教会へ行く石畳も、夜の暗い森に輝く星の光ですら似合う。好きな子がいたら、一度は赤い靴を履かせたいものだ。赤い靴の話でした。

くまの人形

前書いたのもつい最近だと思っていたのに。今日はくまの人形について少し。

私は3歳の頃から白いくまの人形を持っている。記憶にもないが、アルバムの写真には写っているので、恐らくそれで間違いない。

なぜ白いくまだったのだろう。アメリカの子供がクリスマスのプレゼントにもらうような、大きくてふわふわで茶色いありきたりな「くま」ではなく、白くて小さくて、別段ふわふわともしていない、というかむしろ毛はギュギュッとしている、くま。今見ると、縫製技術が悪かったのか、口元が歪んで付いていて、何とも愛らしい皮肉じみた表情をしている。

くまに対する愛着は、幼い頃、誰にでもあるのかもしれない。少なくとも私はこの白いくまに何回か名前をつけ、その度に忘れている。それくらい可愛がっている。

あと、いつ手に入れたかも覚えてない、茶色いくまもいる。今ではこの二人(二匹?)はワンセットだ。どこに行くとしても、きっと捨てられないし、大人になって誰かに譲る日が来るのも、ずっと先のように感じる。

くまちゃんだよ、と子供に人形を渡すなら、まず間違いなくテディベアを、茶色くて大きくてふわふわなやつを選ぶ気がするのだが、私のくまは白くて小さくてギュギュッとしている。親の、あるいは祖母たちの、これを渡したという意図も分かりかねるし、気が知れないのだが、思い返せば存外、そんな家系だったかもしれない。めちゃくちゃな運命上にある家系。そういうことから逃れられない血筋。

こんな奴だが、地味に愛着が湧いているのだ。無論、もう片方の茶色いくまはちゃんと大きいしふわふわで、こちらも可愛い。くまの人形というのは、今までずっとペットを飼えなかった環境にいる私に唯一許された癒しの存在だ。

しかし本当にこの二人(二匹?)、一体いつから私の元にいるのだろう。思い出そうとすると、頭の中の闇を永遠に歩くような感覚がし、本能的に恐怖した貴方はSAN値チェック(0/1)です。

一度でいいから、クリスマスプレゼントにくまの人形を欲しがってみたい。大きくてふわふわなやつが欲しい、とあざとく言っても許されてみたい。

それより先に親元から離れ、私はクリスマスに一人、寂しげな顔をしながら、スーパーの、毎年品揃えが変わらないクリスマスコーナーを眺めるだけの女になる気がする。嫌だなそれ。くまの人形の話でした。

アリス

またしばらくサボっていた。まぁ、三日目で飽きると思っていたので、長く続いている方だろう。

今日はアリスの話をする。アリスの世界観、またそこから生まれる派生作品が好きだ。絵本の世界から、ハロウィンやスチームパンク、宇宙や銀河系からバトルロワイヤルものまで、アリスという名前や世界観を背負ったキャラクターはこの世に数多くあるが、そのどれもが魅力的だ。

気が強い女の子の代表、と言えるだろうか。
未知なるものや、理解の及ばないものに対して、分からないと諦める事なく進んでいく。そんなアリスの姿に、誰もが一度は夢を見たはずだ。芯の通ったブレない姿勢は、この世で中々突き通しづらくはあるものの、キャラクターとしてもキャッチーで、現実的にも憧れの対象だ。

アリスの万能さの話をしよう。先ほども上げたように、とにかくこの少女は「何にでも合う」。気が強い女の子の性質を全面に押し出した好戦的なキャラクターとして描かれる事もあれば、不思議の国の世界観が色濃いタイプの特殊攻撃持ちだったり、星空をモチーフにしたシルエットのアリスと仲間達が描かれていればとても可愛いし、白うさぎの時計の印象からスチームパンクのデザインにも盛り込まれる。分かりやすく言えば、少女漫画にも少年漫画にも、青年漫画にもエッセイ漫画にも出れる存在、と言える。

「何にでも合うアリス」という性質を考えてみると、逆に言えば、様々な要素を内包した世界観を展開出来ている、という事になる。ティムバートンですら魅了され、今なお現代劇に落とし込まれたり、多種多様なアプリ内で活躍できているアリスという存在は、正にその世界観が、後ろ盾として完璧であるというほかないだろう。

要素を書き出してみる。森、うさぎ、時計、ぼうし、猫、トランプ、王と女王、ケーキ、紅茶、木の看板、お菓子、キリギリス、セイウチ、カキ、ドアノブ、双子……不思議の国のアリスだけで考えても、これだけある。鏡の国のアリスを追加すれば、チェスやハンプティダンプティなど、もっと要素が出てくるだろう。

そして、これらに共通する私のイメージは、イギリスらしさ、である。アリスの生きたイギリス時代のアイテムが数多く散らばっていて、無意識のうちに英国を歩いているような気分になってくる。そして、国語で習う連想ゲームのように、ふんだんに盛り込まれたそれぞれの要素から、好きな所を抽出して描く事ができる。即興ならではの雑多に押し込まれた設定は、未だに色褪せることなく、私達のやりたい放題でどこまでも違った面を見せる、魅力的なストーリーとなった。寧ろ、これから先、今まで暴かれていなかったアリスの一面をどのようにして描いていけるかが、アリスを扱う上で一つのテーマになってくるだろう。

ジョニーデップがマッドハッターを演じるまではイケメン度ではチェシャ猫の方が優っていた。どんなキャラクターにどんな必然性と魅力を見出せるか。愛を持って描ききれるか。アリスという有り触れたテーマを扱う時にこそ、考えなければいけない事であるはずだ。アリスの話でした。

心理テスト

二日ごとの好きなもの更新でさえサボるのが私。
せめてこれくらい頑張れ。

心理テスト。人生の中で一度はやったことがあるだろう、自己を知る為の、或いは他人を知る為の、或いは場を盛り上げる為の、採点のいらないテストである。

例えば、ずっと手を挙げていて、それに気付いているのに自分のそばを素通りしたタクシーに、後ろからなんて声をかけるか?という心理テストでは、言った内容が「恋人と別れる時の台詞」だとか。私は「ですよね」、だった。

色を思い浮かべるだけのテストから、具体的に言葉にするテストまで、幅広く人の心を暴く存在である。怖い。

私は心理テストが大好きだ。面白い話ができない人間は心理テストを主催すれば良い。場の空気に困ったら何となく聞いてみるのも良い。こうしてブログのネタにしても良い。あったら何処にでも使える、これさえあれば何もいらない、そう、心理テストならね。という風に、万能ぶりを私たちの人生の中で遺憾無く発揮している。

未知の自分、或いは他人を暴くという感覚も得られる。これはあまり気持ちの良い物ではないが、それでも、知っているのと知らないのとでは、休日寝る前の五分間が少し違うものになるはずだ。自分の中にいる、幼く成長しきれなかった部分を知り、強く自我を持ちすぎた本能を知り、虚しさを知り、また一興を求めて別の心理テストを開く。

心理テストとは、心理学者の生み出した実験用のテストだったとする。それが今や良くできた暇つぶし、娯楽の一つに数えられているが、実際のところ、心理学者はアテにしているのだろうか。子供の絵本の延長線みたいにも感じられるし、心理テストと心理学者の学ぶ所は根本的に違うような気もする。でも、だとしたら心理テストは心理学者によって作られたのだという前提が崩れる。

そもそも、別に心理学者になんか作られていなくて、別の誰かが楽しく作った物なのかもしれない。今回に関しては、全くグーグル先生に聞く気がないので、私にとってはこの真相は楽しい闇の中にある。そのままで良いのだ。
誰が考えたかは重要ではないし、心理テストの信憑性だってどんなにめちゃくちゃでも構わない。それを信じ、それを楽しいと思い、それを必要だと感じ、それで笑える時間が有るのであれば、それだけで、心理テストは存在意義に満ち満ちている。

ところで、私が作った心理テストを一つ。
宜しければ是非試してみてほしい。

貴方は交番の前に立っている。手元には一つ握った財布。これが道の端に落ちていたので、それを警察官に伝えなければならず、貴方は交番に来た次第だ。

選択肢がある。貴方はこの後、どのように行動するか一度考えてから、それに一番近い答えを選んでほしい。

1.迷わず交番の中に入り、落ちていた財布の話をする
2.様々な理由で少し躊躇うが、最終的に交番に入る
3.非常に長く悩んだ結果、交番に入らず別の場所に置く
4.別の人に頼む

さて、この答えからわかるのは、貴方の告白の仕方、或いは恋の仕方である。好きな人ができた時、どのような行動をとるかが、この選択肢で分かってくるだろう。

1を選んだ貴方は、好きだと思ったら強く真っ直ぐ、まずは連絡先を交換するタイプ。さらに行けそうであれば、後日会う目処まで立たせるし、複数回グループ内で会った後、徐々に親密になっていき、何ならむしろ相手から告白されるタイプだ。凄くガンガンいける性格には、貴方が告白しなくたって相手が落ちている可能性が高い。それに貴方は考える。無闇矢鱈に押すだけではなく、攻略しながらの知能戦も視界の範疇だ。それだけ貴方は魅力的である。

2を選んだ貴方は、好きだと思う気持ちは強いが、行動には中々出せないタイプ。あくまで友人、あくまで他人。付かず離れずの一定距離をうまいこと築いておきながら、追う視線だけは外せないのが貴方という人である。残念なことに相手には思いの1割も伝わっていないので、告白をすると、急に何だと思われて失敗することが多い。むしろ、オープンな付き合い方をした特別な感情のない友人の方が恋愛関係に発展しやすいタイプなので、なんというか、無理は禁物である。それでも貴方は魅力的である。

3を選んだ貴方は、重い恋煩いをし過ぎた結果、疲れ果ててしまい、告白はしないタイプ。それでも、貴方の中に燃える炎は通常の人の何倍も大きい。一度着火すると二度とは消えない激しさで、強く、濃く、自分の中のタガを掛け違えながら好きになっていくタイプだ。盲目的かつ執着的な愛の行く先はいつも限って自分ばかりで、相手に届きづらい所がある。そんな思いを抱ける貴方は魅力的である。

4を選んだ貴方は、恋愛だって面倒なこと、と片付けている節があり、告白や恋に発展しづらいタイプ。恋に落ちた音を聞いても、どこか他人事に感じながら我が道を歩き続けてきたため、恋愛がなんなのかもボヤけてしまったのかもしれない。一人で生きていける人生の中で、それでも自分が夢中になってしまうような出会いが何処かに落ちてないかと思うのも事実だろう。私生活の忙しさが勝り、人生の辛さが勝り、恋愛の入る余裕もない貴方かもしれないが、いつかフリーダムになったら遊びの一つや二つも良いかもしれないと思いながらデスクに戻る。そんな貴方は魅力的である。

以上全ての事柄は全くの嘘であり、なんの根拠も試しもない。良ければ、なんの根拠もないという部分まで含めて、仲間内などで遊んでみてほしい。そんな風に使える心理テストの感覚が好きだ。心理テストの話でした。

ひげ

髭は良い。あれは人を選ぶと思うが、生やせば誰でも似合う気がする。髭が好きなのか、髭が生えた人が好きなのかは分からない。

好きな人すべてに髭が生えているわけでは、勿論ない。
でも、髭が生えている人は無条件に好きだな、と思う。
ただ、これに関して言えば、今までとは少し違う。好きな髭もあれば、嫌な髭もあるのだ。

自分を飾るものとして、あるいはアイデンティティや、自然となった顔のパーツの一つとしてある髭は好ましい。大人に見える、あるいは大人に見られようとしているのが分かるような髭には、整えられようという気概を感じられる。この人の顔の一部になろう、と、髭が生えている。

尊厳や威厳、含蓄、そういったものまで蓄えている髭は、何となく嫌になる。髭の自主性がないのだ。俺が生やしているんだぜ、という思いが濃くなりすぎて、髭の気持ちが全くない。

勿論、髭に気持ちがあるとして、だが。

例えて言えば、誰のものでもない野山に生えた大草原と、刑務所に無理矢理植え付けられた人工芝くらい違いがある。俺が生やしているんだ、という思いは、私はあまり好きではない。そういう髭を生やしている者に限って、性根が捩くれ曲がっている事が多い。酷い偏見だと自分でも思う。しかし、強い自己を持って髭を生やす人の大半は、自分以外の人間を見下している。髭を大切にしてほしい。

髭は良いものだ。しかし、扱う人によっては草原にも人工芝にもなれるのだ。どうか、髭を生やす時は、きちんとお手入れをして、服と同じように楽しく着飾るものとして扱ってほしい。自分のものだから良い、ではないのだ。それは、他人に見られた時、他人の心を支配する。

髭を剃る時間もなく生えている、所謂「無精髭」と呼ばれるものだが、あれは如何か。私は好きだが、好きと思えるのは二次元までだ。究極に整った顔でなければ許されない存在なのだろうなと思う。

現実に好きな人ができて、その人と迎える朝と無精髭まで愛する事が出来たなら、私の世界はもう少し広がるのだろう。髭の話でした。

星自体を好きだと思ったのはいつ頃だろう。というか、星を好きになりたがったのは、いつだったのだろう?

元から星が好きだったのかもしれないし、星を好きになりたい、と思って好きになったのかもしれない。一体、いつからこんなに、光るものや星や月たちを好きになったのだろう。わからない。

そういえば、昔から蓄光は好きだった。いつ頃だったかも覚えていない子供の頃だが、妹と、なんらかのクジを引いて、なんらかの景品を交換した。気がするのだが、妹に確認を取ったところ、その覚えはないそうだ。でも、その時に交換した四葉のクローバーの蓄光キーホルダーは、確かにあったと二人で話をしている。その頃から、とにかく私の記憶では、交換してもらうくらい、蓄光のボンヤリとした光が好きだったのだろう。

意識をして星自体を好きになったのは、恐らく宇宙兄弟を読んでからだ。宇宙兄弟に出てくる二人、兄の「南波 六太」と弟の「南波 日々人」は、幼い頃から貪るように宇宙についての知識を調べ、身につけていた。宇宙に行く、と決めた時から、その知識だけを、一心に。

羨ましかった。そんな人間いる?いるんだろうなあ。でもほら、夏休みは毎日のようにJAXAに通っていたとか、三日間かけて京都まで自転車で行ったとか(その後、成長した日々人は月を目指さない兄・六太に「月にも三日で行けるんだぜ。そう思うと、もう届かない距離じゃないだろ?」と言ったりする)、羨ましいじゃあないか。

言い換えれば自分にもそんな経験がなくはないかもしれないけれど、やっぱり、羨ましかった。星や地球、宇宙に関する知識ってのは、やっぱり遠くて壮大だった。夏休みに入り浸ったどこかがあるのも青春ぽかった。合唱団の練習にばかり行っていたから、学校以外に行くところを知らなかったし。

星の知識は、少しでも知っていればロマンチックな気分になれる。日常に対するスパイスのように、私からすれば、お洒落の種類の一つだ。

そして、星を好きになりたい、と望んだ。
星を好きになった。
それが結構、愚策だった。

まず、とんでもなく難解だ、と結論した。私にとって星の話は、今も昔も難しい。専門の書なんかも図書館にはあったが、好きになるのには、少しばかり向いていなかった。好きになってもいないのに知識を貪り食らうなど、到底無理な話だと私は諦めてばかりいる。

第二に、そもそも星が見えなかった。
私の住んでいた家は決して都会じゃないものの、国道が近く夜も明るいため、オリオン座くらいしか分からなかった。冬の夜、形をハッキリと主張しているオリオン座だけは、私の味方だった気がする。星の羅列を眺めても、アプリで位置を確認しても、全く実感が湧かないくらいに見えなくて、私は輝かしいLEDを憎んだものだ。

引っ越した後、私は夜空を取り返した。駅から10分遠くなるだけで、ここまで光が見えるとは。思ってもいなかった夜空の歓迎に、私はここでも生きていけるかもしれないと強く感じていた。かもしれない。多分。

星を好きになったことは、今でも愚策だったと思っている。星に関連した文房具やバスボム、紅茶なんかをすぐに買ってしまうし、星の写真や宇宙の本も欲望の対象だ。夜空が見えやすくなった分、分かりたい星も増えてくる。蓄光に関してもそうで、夜に光る!というだけで買ったものの数知れず、だ。近くにプラネタリウムの文字があると、探して入るまで全ての時間を潰さずにはいられないし、部屋用に買ったプラネタリウムは星が見える故に今は埃をかぶっている。

いいんだ、それでも。どこかで星がそう言っている。
それで人生が豊かになるなら、いくらでも星を好きでいていいのだと、多分、私の大半は星の教訓で出来ていることを、星はまた、なんとなく教えてくれている。

さて、星といえば。皆さんはもう、「星の街」として有名なシュテルンビルドには行かれただろうか?まだであれば、急いだ方が良いだろう。星の街に住むヒーロー達は、まさに輝き続ける恒星だ。しかし、そんな彼らが生み出し続ける物語は、一瞬で流れ去り消えていくほうき星のような短命性を持って、あなたを魅了する。黒いソーダ水を飲み込んだような、胸いっぱいのきらめく心のお話が、輝ける星の街・シュテルンビルドで待っている。
詳しくは、タイガー&バニーを要チェックだ。

そう、話の途中に出てきた「宇宙兄弟」が何かと気になる人もいるだろう。読んで字の如く、宇宙を目指して人と生き、地上に立って月面で歩く兄弟二人の話である。具体的な宇宙に関する知識はなおのこと、人との触れ合いや成長といった私達全員に該当する様々な日常が、全人類の期待を背負う「宇宙飛行士」の非日常を作っているという側面を強く描いている。アニメ版は一度完結しているが、本編はそこから更に、留まることのない宇宙の可能性を描いている。子供の頃に考えた宇宙の始まり、その答えが、きっと貴方の中に眠っているだろう。
詳しくは、宇宙兄弟を要チェックだ。

決して平田広明の回し者ではない。決して。ちらちらと瞬く星の息吹は数百年前から、私達の視線を受けた光は数百年後の世界まで。壮大な未来に期待はできなくとも、明日も星が光っている世界を思うと、少しだけ夜も眠りやすくなりそうだ。星の話でした。