人災絶頂期

絶対三日坊主宣言

季節の変わり目

季節の変わり目は良い。私はそのほとんどの場合、特徴的に変化し続ける気候のせいで、身体的な憂鬱に悩まされている。しかし、それを上回る魅力を、季節の変わり目は持っている。
春から夏に変わる時、あの熱気、あの湿気、ほぼ全ての人が、太陽の近さより湿気の多さを、肌から感じ取るだろう。心臓が、まだ見ぬ夏という固定的な概念に踊る。強い日差し、熱い砂浜、輝く白いワンピース、或いは水着。ほぼ全ての夏を制する海という存在は大きい。母なる海とはよく言ったものだ。実際、この地球の7割は水で出来ているし、人も7割は水なのだから、お母さんと呼んでも大した差異はないのかも。山も良い、虫に刺され、草にかぶれるが、完璧なアートとも呼べる森林とそこに立てられた理想郷、涼しさという自然の安寧、最強だ。というか、都会の暑さと室内の寒さにノックアウトされる前に山に行くべきだ。朝は寒いけど。迎え入れる準備が出来上がってしまうと、夏というものはあっという間に胸に飛び込んでくる。強い意思とか、季節の絶対王者とかいう誇りみたいなものを、既に持ち合わせている感じがする。
夏から秋に変わる時、夏が終わってしまったことと、枯れを象徴する秋の夜長、長雨に、人は少し心を落ち着かせる。過ごしやすく涼しい風が頬を撫でた時なんかは喜んでしまう。秋という季節、不安定な、ほんの一時の過ごしやすさに、体は現金に喜んでしまう。そんな秋、弄んでいるような大人な恋人と付き合うには、無論背伸びをしたくなる。し、人が一番、気取っているのは秋だと思う。そんな感じがするし、私も秋に気取る事が多い。その分は、冬に沈む。
秋から冬に変わる時、これは、また随分と憂鬱に拍車をかけてくる。とにかく朝は寒くて頭が働かないし、外に出たら太陽だってまだ寝ているし、だっていうのに夜が覆う時間は長くなってくるし、突き刺す風は最早痛い。でも、それでも、お気に入りのコートに袖を通す瞬間はいつだって、少し心が高揚しているし、何より、寒がりながら分厚い服に身を包む人たちの、なんと美しいことか。よく分からないが、冬のファッション、覆い尽くしてしまうような、防寒に傾いたファッションは好きだ。あの厚着に身を包みながら、ひとたび暖房の効いた部屋に入れば、心緩むような暖かさ。景色も心なしかホワイト、或いはグレーの薄いレイヤーをかけたような気がしてくる。また、スキーを嗜んでいる以上、やはりスキー板やブーツ、スキーウェアの乗った雑誌を開くあの瞬間の興奮は、何にも代え難い。面倒くささ含めて、冬を全身で感じ始める。
冬から春に変わる時。私はこれが一番好きだ。いやよく分かんないけど好きなのだ。めちゃめちゃ好きだ。本当にこう、これはアレだな、好きすぎて、なんて言っていいか分からないのだけれども、好き。薄氷という言葉があるでしょう、それがピシパシとヒビを入れて、ゆっくり、下の冷たい水に、溶けていく。神社にある謎の水溜めとか、通学路の深すぎる水溜りとか。私の思い描く冬から春への変化イメージは、常に学生時代のものだ。理由は、フリーターになってからまだ春になってない、ってだけなんだけど。その通学路で見つける小さな春の蕾とか、まだ風は冷たいけど太陽は早起きになっていて、刺す日差しの日毎に変わる高さとか。もう少し進むと、風も緩く、コートを脱ぎ始める。私はコートが好きだし、意外と寒がりなので、下手したら四月まで着ていることもある。センチメンタルに浸らせてくれた冬に最後のお別れをして、春はもう浮かれきっている。ルンルンで福袋を見に行くのだけれど、いっつも中身がそぐわなくて買わない。甘酒は飲めないし桜の枝は折ったけど、それでも春は全人類の味方だ。心が浮かれる日本の春を愛している。季節の変わり目の話でした。